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『注文の多い料理店』 宮沢賢治著を読んで

宮沢賢治の有名な短編。森に迷い込んだ2人の狩人たちは、始めは奇妙で、後に恐ろしい’注文の多い料理店’で得体の知れない魔物に襲われることになる。
 
そこを狩人たちと共にいた猟犬が、魔物を追い払い助けるという物語だ。
 

 
状況を観察してみると、魔物は猟犬を恐れるが、狩人たちは恐れない。
では、ヤギの魔物かと考えてみると、ヤギは草食だ。
ゴートは、ヤギであるが、一般的にヤギは欲深い生き物の象徴という印象がある。
深い森の中に、肉食の羊の魔物で揚げ物を好むゴートがいたとも考えられる。
 
 
仏教や民俗学の’鬼’は、このテーマだけで多くの文庫本の専門書が出版されている。
 
ゴート(ヤギ)は、仏教でも’羝羊(ていよう)’として出てくる。
 
空海の十住心の「異生羝羊心(いしょうていようしん)」と言うのは、人の精神状態を10個に分けた内の、一番下を指す。
 
意味は、「欲望のままに生きるヤギと同じ」精神状態というものだ。
 
では、ヤギを悪くいうのかという疑問が残る。
 
なぜならば、仏教の六道輪廻という考え方からすると、ヤギも動物という、「地獄道・餓鬼道・畜生道」の3番目の’畜生道’に分類されることになる。
 
仏教というと、生き物に対する慈愛と言う考え方はあるのだが、ヤギ(羝羊、ゴート)はその対象に入っていないと考えられないか。
 
ほんの些細なことだが、「一寸の虫にも五分の魂」とあるのだが昔から鈴虫や蝶やとんぼ等の虫は好まれているが、嫌われている虫もいる。そして、黒猫が不吉と言われるようにどんどん生活の中で、場慣れしてくるものだと思う。
 
 
では、それと同じように仏教の中ではじめから教義の中で良くないとされている動物がヤギかと言うと、それは例え話と同じだろう。
 

 

 
 

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パンドラの箱があるところ

開けてはいけない箱。パンドラの箱。この箱を開けたのは、人間だろう。
パンドラの箱は、鬱蒼と茂った森の中の奥にある。そこには神殿があった。
その大きな神殿の門は固く閉ざされている。
そして、とある訪問者がその扉を開けてしまった。
 
遥か昔のその過ちが、現在に尾を引いて残っている。
 

神話であるが、ではそもそもこの箱を作って深い森の中に紛れさせて隠れさせたのは誰か。
 
人間には、好奇心というものがありその訪問者は結果的に災いを世界にもたらせてしまった。
 
但し、ここはもっと状況を深く観察したい。
 
【状況観察】
パンドラの箱:白い大きな箱
所在地:とある鬱蒼とした太古の森の中の誰も辿りつけない大きな白い神殿
開けてしまった人間:アダムとイブ
きっかけ:好奇心
中に入っていたもの:人間の歴史
 
人間には、ある呪われた感情がある。それは好奇心だろう。この世界には、個性があるが、好奇心から違いを気にするように
なると思う。
 
アダムとイブも蛇のリリスにそそのかされて、知恵の実を食べてしまい楽園追放される。
 
蛇は旧約聖書リリスエジプト文明クレオパトラツタンカーメンヒンドゥー教シヴァ神の乗った宇宙の構図には、亀と蛇が
模されている。また、体が亀で頭が蛇の鵺は第二次世界大戦の日本軍の中国における卑劣さを著わした風刺画にも描かれている。
 
蛇と言うとあまり好かれている生物ではないが、それはあの細長い姿と威嚇する時に鎌首を挙げてあの爬虫類特有の目を持っていて口を開けると恐そう等の理由からだろう。
 
蛇は原始からあまり進化の過程で姿を変えていないと言われている。
 
よくツチノコが騒がられるが、蛇が騒がられるのは恐怖からで、ツチノコに関しては未知の生物、それは蛇に対する好奇心でもあると思う。
 
蛇は怖いが、その蛇に似ているのにどこかツチノコはチャーミングなのだ。
 
但し、ツチノコに毒があると言われたらまたその捉えられ方は、蛇よりも嫌われるだろう。
 
人間には元来そんな理不尽なところがあると思う。
 
それは、ツチノコを可愛いと言っていた人が、あっと言う間に毒が怖いからツチノコを嫌うならまだ分かるが態度をころころ変えるのは蛇にとっても、そしてツチノコにとっても哀しいことだと思う。
 
また、蛇にとってもツチノコにとっても地球の人類とは違う生き物であり、毒があるかないかはそれは生きるための手段だ。そして、そこに実際の所人間が嚙まれて毒によって被害を被るかということならば分かるが、それ以外の判断を下すのは蛇とツチノコにとって大きな疑問であろう。
 
但し、人間の世界には不当な暴力を止める人間や組織がある。自然界にはそのような役割を持つ生き物はいない。
 
そのような差異から、人は好奇心を持ち、判断を下し、ほかの生物とも意思疎通ができずに永遠に歴史を作りながら、そして生きていく。
 
人の好奇心は本当に恐ろしい。人の持つ「毒」である好奇心という感情を麻痺させて時には死に至らせるものは、人間ならば誰だって持っているからだ。
 
【状況観察】
差異→
蛇:毒のあるもの多種
ツチノコ:架空の生き物
人:人も毒を持つところ
 
共通点→
同じ生物であり、同じ地球を住処とするところ
 

 

 

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お地蔵さんと日本刀

 

街の外れでたまに見かけるお地蔵さん。

時間がその場所だけ止まっている。

そして、果てしなく過ぎていく人の流れをもう何十年にも渡って俯瞰しているように見える。

小さい頃に、親と祈りを捧げたお地蔵さんはまるで人の世の儚さを全て見通しているかのようだ。

偶にふと童心に返ってまた手を合わせてみると、何気ない自分の変わっていない所が出てきたりする。

 

『笠かけ地蔵』という日本の物語があるが、お地蔵さんの愛され方は昔から変わらない。

雪の中、寒いだろうとお年の召した裕福でないおばあちゃんがお地蔵さんに雪で寒かろうと藁で編んだ頭巾を付けてあげるとその後にお地蔵さんが福を連れてくるという昔話だ。

お地蔵さんには、地蔵菩薩水子地蔵等の区別がある。

 

また賽の河原の地蔵虐という鬼は、親より早く世を去った子供に対して、親を悲しめた罰として、あの世の賽の河原という川の岸でその子供たちに石を積ませる。但し、石を積みきるところでその地蔵虐という鬼はその石を崩してしまう。

これは本当に残酷なのだが、日本特有の罰だ。

 

ここまで残酷な鬼を思いつく日本人の発想は少し問題があると思うのだが、その子供たちは常世からあの世に来ていて、その鬼たちは元からあの世の河原にいる。

このような鬼を生み出した仏教の思想というものは、元来中国から受け継いだ後に日本で独自のあの世の番人を生み出すようになった。

 

日本の仏教文化は鬼という存在にその島国の秘めた歴史上の残酷さを語り部としても含めたのだと思う。

これを裏付けるのが、日本の武士の切腹だと思う。

武士は、日本刀という武器に価値を置いている。

日本人は日本刀の殺傷性に憧れというものがあるのだろう。

仏教は武士に受け入れられたが、そもそも殺戮を正当化するような勧善懲悪は仏教とは言えないと思う。

 

 

 

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ニュース。

 

「10本でさえ罰当たりだよね」

「それをこの神社の座敷の間の中で夜な夜なやるんだ」

「今度は5本で何も起こらなかったんだ。やっぱり嘘だよ」

 

——1カ月後、同じ箸山神社にて

 

「あー、テレビ沙汰にならないかな」

「ならない、ならない、4本でどうかな、起こりますように」

「なんて罰当たりな」

「そう言うな、信じていないだろう」

「確かにね」

「これが最後の4本」

「起こるかな」

 

AさんとBさんとCさんとDさんの4人は古い神社の座敷の中に入り込んで3回目の100物語を始めた。全員、頭のいい17歳の若者達だ。

電気を消した真っ暗な部屋の中で、どろろとした話が一つ終わり一本蠟燭を消す時が来た。

「何か変わったことは」

「無いんだよ」

そう聞こえた。

「何だつまらないな」

 

2つ目のどろろとした話が終わった。

「何か」

「無いね」

 

3つ目の話が終わった。

「ないない」

寒気を感じたので

「誰も何も起こっていないだろうな」

とⅭさんが言った。

Ⅽさんは続けた。

「消えたりしていないよね。」

「ない」

「ない」

「ない」

 

急におかしいと感じたⅭさんは

「何でないって3人とも言うんだ」

と聞いた。

 

AさんとBさんとDさんは

「続けて、続けて」

と言う。

Ⅽさんが4つ目の話を終わらせた。

恐る恐る蝋燭の火を消すと、

AさんとBさんとDさんは

「よく来たね」

と口々に言う。

 

「からかうのもいい加減にしろ」

と言って、電気を付けるとAさんもBさんもDさんもそこにいた。

 

——1年後——

テレビでニュースが放送されている。

「この箸山神社にいたと思われる4人の当時17歳の少年たちと連絡が取れなくなって1年になります。捜査は難航しており——」

 

 

 

 

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変わりゆく信仰

アニミズム

日本には、邪馬台国卑弥呼が書物に‘鬼祷をよくし’と残されている。

これはつまり、まじない(呪い)を得意としている、という意味になる。

 

日本には古来から‘アニミズム’という考え方がある。

これは、海、山、石等に神が宿りそれを崇拝するという事になるのだが、身近な例で言うと道祖神様や神社の八百万の神々に繋がる。

 

またそこから、垂加神道本地垂迹説なども歴史の中で当たり前のように出てきた。

 

やはり、頼り所の神様は経歴身元がしっかりしていないと、日本人は信仰しにくいようだ。日本では、本地垂迹説は天照大神様を大日如来の化身と捉える事にするとかが議論されている。

 

これは、持論に過ぎないが、古代はアニミズムを持つ日本の人々は自然の猛威にことごとく打ちのめされていたのだろう。

そこから、アニミズムがあり都市部では、

【古代の天災】

:自然→生活に脅威になる→恐ろしい→崇拝対象の根本

:結果 アニミズム上大いに信仰する

 

【現在の天災】

:自然→生活にあまり脅威ではない→あまり恐ろしくない→崇拝対象から少し離れる

:結果 アニミズムから少し離れる

 

【未来の天災】

:自然→生活に殆ど脅威ではない→更にあまり恐ろしくない→崇拝対象から更に少し離れる

:結果 アニミズムが少数派になる

 

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これは怖い

 

僕はまだ小さい頃に、ゲゲゲの鬼太郎を怖いと思っていた。

笑われてしまうかもしれないが、あの昔のゲゲゲの鬼太郎のエンディングの画面の両端のお化け達が踊るのが恐かったのだ。

 

僕は小さい頃に、世にも奇妙な物語を怖いと思っていた。

これは立派に絶対にこの物語は奇妙ではなくホラーとして怖いと思ったのが、夜な夜な主人公が薄暗いマンションのバルコニーを見ると三輪車に乗った子どもの首がぐるぐる回転していたのだ。

 

二つとも忘却の記憶の中でそれでもいい思い出として残っている。

このような思い出は万国共通、人であるならば共通だろう。

 

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どこから訪れたか

自然界で永遠に生きたいという意思を持つのは人間のみだと思う。

人間が永遠を求めるのは、死と言うものが得体のしれないものだからだろう。

宗教を問わず、死が恐ろしいというのは、子ども心に死を‘別れ’と捉えるからだろう。

 

 

 

幼少期に既に、死→葬式、と言うものがしっかりと心に焼き付けられる。

葬式で、涙をおさえる周りの黒い喪服姿大人の最後の別れによって、死とは別れと知ることになる。

誰でも経験があると思うが、その別れに関して深く立ち入ることは禁忌だ。

タブーであると同時に、夜一人で何でかな、等と考えてもそれは人間に課された寿命や天寿と言った大きなサイクルであり誰もそれを止めることはできない。

 

その今は亡き人が返ってくるとされるお盆休み等があるが、人間が本当に確かめたいのはその亡き人達が本当にあの世からほんの少し戻ってきているのか、何よりあの世があるのかどうか、だと思う。

 

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