『注文の多い料理店』 宮沢賢治著を読んで
あなたの周りに起きている不思議な出来事はありませんか?超小型おばけ探知機 "ばけたん BAKETAN"は特殊なセンサーにより、空間に存在する"おばけ"をサーチします。
パンドラの箱があるところ
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お地蔵さんと日本刀
街の外れでたまに見かけるお地蔵さん。
時間がその場所だけ止まっている。
そして、果てしなく過ぎていく人の流れをもう何十年にも渡って俯瞰しているように見える。
小さい頃に、親と祈りを捧げたお地蔵さんはまるで人の世の儚さを全て見通しているかのようだ。
偶にふと童心に返ってまた手を合わせてみると、何気ない自分の変わっていない所が出てきたりする。
『笠かけ地蔵』という日本の物語があるが、お地蔵さんの愛され方は昔から変わらない。
雪の中、寒いだろうとお年の召した裕福でないおばあちゃんがお地蔵さんに雪で寒かろうと藁で編んだ頭巾を付けてあげるとその後にお地蔵さんが福を連れてくるという昔話だ。
また賽の河原の地蔵虐という鬼は、親より早く世を去った子供に対して、親を悲しめた罰として、あの世の賽の河原という川の岸でその子供たちに石を積ませる。但し、石を積みきるところでその地蔵虐という鬼はその石を崩してしまう。
これは本当に残酷なのだが、日本特有の罰だ。
ここまで残酷な鬼を思いつく日本人の発想は少し問題があると思うのだが、その子供たちは常世からあの世に来ていて、その鬼たちは元からあの世の河原にいる。
このような鬼を生み出した仏教の思想というものは、元来中国から受け継いだ後に日本で独自のあの世の番人を生み出すようになった。
日本の仏教文化は鬼という存在にその島国の秘めた歴史上の残酷さを語り部としても含めたのだと思う。
これを裏付けるのが、日本の武士の切腹だと思う。
武士は、日本刀という武器に価値を置いている。
日本人は日本刀の殺傷性に憧れというものがあるのだろう。
仏教は武士に受け入れられたが、そもそも殺戮を正当化するような勧善懲悪は仏教とは言えないと思う。
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ニュース。
「10本でさえ罰当たりだよね」
「それをこの神社の座敷の間の中で夜な夜なやるんだ」
「今度は5本で何も起こらなかったんだ。やっぱり嘘だよ」
——1カ月後、同じ箸山神社にて
「あー、テレビ沙汰にならないかな」
「ならない、ならない、4本でどうかな、起こりますように」
「なんて罰当たりな」
「そう言うな、信じていないだろう」
「確かにね」
「これが最後の4本」
「起こるかな」
AさんとBさんとCさんとDさんの4人は古い神社の座敷の中に入り込んで3回目の100物語を始めた。全員、頭のいい17歳の若者達だ。
電気を消した真っ暗な部屋の中で、どろろとした話が一つ終わり一本蠟燭を消す時が来た。
「何か変わったことは」
「無いんだよ」
そう聞こえた。
「何だつまらないな」
2つ目のどろろとした話が終わった。
「何か」
「無いね」
3つ目の話が終わった。
「ないない」
寒気を感じたので
「誰も何も起こっていないだろうな」
とⅭさんが言った。
Ⅽさんは続けた。
「消えたりしていないよね。」
「ない」
「ない」
「ない」
急におかしいと感じたⅭさんは
「何でないって3人とも言うんだ」
と聞いた。
AさんとBさんとDさんは
「続けて、続けて」
と言う。
Ⅽさんが4つ目の話を終わらせた。
恐る恐る蝋燭の火を消すと、
AさんとBさんとDさんは
「よく来たね」
と口々に言う。
「からかうのもいい加減にしろ」
と言って、電気を付けるとAさんもBさんもDさんもそこにいた。
——1年後——
テレビでニュースが放送されている。
「この箸山神社にいたと思われる4人の当時17歳の少年たちと連絡が取れなくなって1年になります。捜査は難航しており——」
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変わりゆく信仰
アニミズム
日本には、邪馬台国の卑弥呼が書物に‘鬼祷をよくし’と残されている。
これはつまり、まじない(呪い)を得意としている、という意味になる。
日本には古来から‘アニミズム’という考え方がある。
これは、海、山、石等に神が宿りそれを崇拝するという事になるのだが、身近な例で言うと道祖神様や神社の八百万の神々に繋がる。
またそこから、垂加神道、本地垂迹説なども歴史の中で当たり前のように出てきた。
やはり、頼り所の神様は経歴身元がしっかりしていないと、日本人は信仰しにくいようだ。日本では、本地垂迹説は天照大神様を大日如来の化身と捉える事にするとかが議論されている。
これは、持論に過ぎないが、古代はアニミズムを持つ日本の人々は自然の猛威にことごとく打ちのめされていたのだろう。
そこから、アニミズムがあり都市部では、
【古代の天災】
:自然→生活に脅威になる→恐ろしい→崇拝対象の根本
:結果 アニミズム上大いに信仰する
【現在の天災】
:自然→生活にあまり脅威ではない→あまり恐ろしくない→崇拝対象から少し離れる
:結果 アニミズムから少し離れる
【未来の天災】
:自然→生活に殆ど脅威ではない→更にあまり恐ろしくない→崇拝対象から更に少し離れる
:結果 アニミズムが少数派になる
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これは怖い
僕はまだ小さい頃に、ゲゲゲの鬼太郎を怖いと思っていた。
笑われてしまうかもしれないが、あの昔のゲゲゲの鬼太郎のエンディングの画面の両端のお化け達が踊るのが恐かったのだ。
僕は小さい頃に、世にも奇妙な物語を怖いと思っていた。
これは立派に絶対にこの物語は奇妙ではなくホラーとして怖いと思ったのが、夜な夜な主人公が薄暗いマンションのバルコニーを見ると三輪車に乗った子どもの首がぐるぐる回転していたのだ。
二つとも忘却の記憶の中でそれでもいい思い出として残っている。
このような思い出は万国共通、人であるならば共通だろう。
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どこから訪れたか
自然界で永遠に生きたいという意思を持つのは人間のみだと思う。
人間が永遠を求めるのは、死と言うものが得体のしれないものだからだろう。
宗教を問わず、死が恐ろしいというのは、子ども心に死を‘別れ’と捉えるからだろう。
幼少期に既に、死→葬式、と言うものがしっかりと心に焼き付けられる。
葬式で、涙をおさえる周りの黒い喪服姿大人の最後の別れによって、死とは別れと知ることになる。
誰でも経験があると思うが、その別れに関して深く立ち入ることは禁忌だ。
タブーであると同時に、夜一人で何でかな、等と考えてもそれは人間に課された寿命や天寿と言った大きなサイクルであり誰もそれを止めることはできない。
その今は亡き人が返ってくるとされるお盆休み等があるが、人間が本当に確かめたいのはその亡き人達が本当にあの世からほんの少し戻ってきているのか、何よりあの世があるのかどうか、だと思う。
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